追悼 井出孫六さん




秩父事件顕彰運動と井出孫六さん

 井出孫六さんの死去を事務局長の吉瀬さんからのメールで知った。早速、新聞を開いてみた。本年一〇月、八九歳で永眠された。 天寿を全うしたと思った。
 私が井出孫六さんの著書に初めて接したのは、一九七三年に出版された『秩父困民党群像』(新人物往来社)であった。一気に読み切った記憶がある。
 井出さんが取り上げた群像は、田代栄助、困民党トリオ―落合寅市・坂本宗作・高岸善吉、大野苗吉・大野福次郎ら風布の人びと、梅村相保・宮川津盛ら神官と信徒、菊池貫平・井出為吉ら佐久の同盟者、悲劇の組織者・小柏常次郎、新井寅吉・貞吉親子、秩父の谷間の女たち―村上ハン・新井チヨ・小柏ダイら、国内亡命の道―井上伝蔵の生涯である。
 こう挙げてみると、事件中心人物からそれを支えた人々までよく考えられた構成となっている。秩父の谷間の女たちは新鮮だった。
 恐らくわが会の会員ならばこの著書を読んでいない人はいないであろう。この本は多くの人々に愛読された。
 この本が出版された一九七三年は、私が秩父事件に関わるようになってから五年目であった。
 次に読んだ井出さんの編著書は、『自由自治元年―秩父事件資料・論文と解説』(現代史出版)で、一九七五年の出版である。
 中身は『朝野新聞』、『木公堂日記』、『自由党史』、「秩父颪」(釧路新聞)、高橋中禄「秩父一揆巨魁の逃鼠」、堺利彦「秩父騒動」、平野義太郎「秩父暴動―その資料と検討」、井上幸治「秩父事件―その社会的基盤」、中沢市朗「落合寅市の遺稿をめぐって」、「秩父事件小辞典」で構成している。
 私は「秩父事件顕彰運動」を数年前に執筆したが、その際には何度もこの本にお世話になった。また、『秩父困民党群像』に劣らないほど、たくさんの読者を獲得したと思う。なぜなら、この本は『秩父困民党群像』と並んで文庫本(社会思想社現代教養文庫)になったからである。
 井出さんは本書の冒頭で「これまでに明らかにされているかぎりでも、秩父自由党から困民党が誕生していくその組織過程には、他の民権諸闘争に見られない特質が秩父にはある」と述べている。
 つまり、秩父事件を民権運動から切り離せないと言っているのである。
 井出さんの秩父事件関係の著書はこのほかにもたくさんあるが、次号以降、吉瀬さんが井出孫六さんの著書の紹介をすることになっているので、そちらを参照されたい。
 井出孫六さんと直接お会いしたのは、二回だけである。
 一回目は一九八一年一一月である。この時は秩父市福祉婦人会館で開いた秩父事件九七周年集会で記念講演をお願いした。演題は「秩父事件から何を学ぶか」であった。井出さんは植木枝盛の「日本国国憲案」―日本国民及び日本人民の自由権利―を紹介して、こう結んだ。
 「敗戦直後、つまり私どもが教科書に墨をぬっている頃、憲法学者の鈴木安蔵さんは、この植木の『日本国国憲案』をもとにしましてひとつの私案を作ってGHQに提出しております。英訳して。その英訳された鈴木さんの草案をみて、十日程たってGHQの原案が出来たという経過があります。まさに自由民権運動の中で考えられておった憲法の中に、そういう形で脈々と流れておるわけです。」
 つまり、自由民権運動と秩父事件が求めたものが現在の日本国憲法に謳われているということを、強調したのである。
 二回目は二〇〇三年秋、場所は浦和で「秩父事件一二〇周年記念映画『草の乱』神山征二郎監督とスタッフ・キャストをはげますつどい」での記念講演「私と秩父事件」である。
 井出さんは「秩父事件」の著者井上幸治さんとの付き合いや佐久で育った子どものころ聞いた秩父事件の記憶から秩父事件の研究を志すようになったと語り始め、秩父の生業である養蚕へと進み、最後に井上伝蔵の俳句「俤の眼にちらつくやたま祭り」を取り上げ、こう述べた。
 「この俤に樺戸監獄で死んでいった九人の同志達、あの一万人の参加した農民達一人一人の俤がここにこめられているのではないか、そういうふうに想像するのです。・・・僕の尊敬する俳人で、中嶋幸三さんという方がおります。井上伝蔵の伝記を書きました。とても感動的なものです。その中嶋さんから、今日のために速達をいただきました。
 大正七年六月に井上伝蔵は、家族に自分の秘密を明かしてひっそりと亡くなるわけです。地元の釧路新聞に数日後、大きくとりあげられます。岡部清太郎という記者が井上伝蔵のエピソードを家族から聞いて記事にしたようです。伊藤房次郎の持っている雰囲気に岡部清太郎が魅かれて生前から親交を結んでいたようです。岡部記者の記事「秩父颪」をアレンジする形で、東京朝日新聞が載せています。そのことがあったためにひっそりと亡くなったはずの伊藤房次郎は井上伝蔵として蘇って後世まで伝えられたんです。今度、映画「草の乱」が製作されるにあたり北見市の教育委員会は、はじめて岡部清太郎さんのことを克明に調べて市史編纂室ニュースとして詳しく載せています。今日は、新しい研究資料がありませんでしたので、中嶋さんから送られた速達をしめに使わせていただいて終わりにします。」
 以上、井出孫六さんの秩父事件研究の各論と総論について述べてきた。井出さんが事件顕彰に果たした功績は絶大のものがあったと痛感している。
 映画『草の乱』製作後、そのころ私が勤務していた吉田町教育委員会に井出さんから電話があった。出版社の社会思想社が店を閉めるので、同社から出している井出さんの本の在庫分を送りたいが引き取ってもらえるかという話だった。もちろん快諾した。
 数日後、段ボールに入った文庫本が送られてきた。開けてみると、『秩父困民党群像』、『自由自治元年―秩父事件資料・論文と解説』、『峠の軍談師―連作・秩父困民党稗史』などがそれぞれ複数冊出てきた。お礼に農産物直売所で野菜を買い、社会思想社に送った。井出さんからの依頼だった。
 井出さんがなぜ吉田町教育委員会に電話してきたかといえば、以前に石間交流学習館に井出さんが秩父関係書籍を寄贈していたからである。
 送られてきた本は教育委員会の窓口に置き、催しの際には売店を出した。本は短期間で売り切れた。
 井出孫六さん、長い間大変お世話になりました。
安らかにお眠りください。合掌。
(篠田健一)


著作紹介

『秩父困民党群像』(一九七三年 新人物往来社)
 秩父事件の指導者たちを描いた小説。小説ではあるが、史料に基づいて、秩父困民党群像の人間的な魅力を生き生きと描きだしている。
 困民党の主たるリーダーはほぼ取り上げられており、彼らがあたかも、つい近年まで存命だった親しい人々であるようにさえ、感じられる。
 この作品によって、秩父事件に関心を持った人も多いだろう。

『自由自治元年』(一九七五年 現代史出版会)
 秩父事件がどのように見られてきたかという点に関する、重要な文献を収録している。
 蜂起の時点における秩父事件観、秩父事件の次の世代が秩父事件をどう語り継いだか、秩父事件を初めて歴史学的に研究した戦前マルクス主義史学の到達点、さらに広範な視野から秩父事件研究を飛躍させた戦後の研究までがおさめられており、今なお、秩父事件研究史の必読文献である。

『峠の廃道』(一九七五年 二月社)
 指導者のプロフィールだけでは、秩父事件は理解できない。秩父事件をめぐる諸問題について、「いくつかの補助線をはさんでみる」試みとして書かれた短文集である。
 自由党と困民党・菊池貫平と佐久・禊教・電信柱など、明治一七年とはどのような時代だったのかを理解する上で、重要な考察を含んでいる。

『峠の軍談師』(一九七六年 河出書房新社)
 秩父事件に関する短編小説集。秩父事件をめぐる諸問題について、歴史的考察を加えながら描いている。

『秩父困民党紀行』(一九七八年 平凡社カラー新書)
 秩父の風土と秩父困民党の歴史とを重ねながら、困民党を生み出した暮らしや信仰を紹介し、秩父事件史跡のガイドブックをも兼ねた書き下ろし。
 南良和氏による写真も美しく、秩父事件をヴィジュアルに理解できるコンパクトな本である。

『私の秩父地図』(一九七九年 たいまつ社)
 秩父の暮らし・信仰について書かれたエッセイ集。
 秩父事件は、秩父の(正確には上武信山里の)日々の暮らしを生きた人々によって起きた。暮らしとは、人々の衣食住や労働、信仰や祈りのことである。井出さんは、秩父の暮らしを深く掘ることによってこそ、秩父事件がめざそうとしたものに迫ることができると考えておられたと思われる。
 暮らしの現実から生まれた、人々を駆り立てる、ひとまとまりの思惟を思想と呼ぶなら、秩父事件の思想は秩父の暮らしに根ざしたものでなければならないはずだ。
(吉瀬総)

(会報『秩父』No.199, 201より)



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