史跡めぐり案内(下吉田周辺)




窪田鷹男巡査殉職の碑
 永保社襲撃後、風布村隊を中心とする困民軍一隊は日野沢から阿熊、下吉田方面へと向かう。それを追っていた警官隊は阿熊村で新井周三郎率いる別の一隊と遭遇し戦いとなる。
 武器で圧倒する困民軍の前に警官隊は逃走するしかなく、下吉田に向かって一目散に走り出すが、窪田鷹男巡査は脚気が原因で遅れ、困民軍に斬られる。その場所にこの石碑が建っており、現在でも県警から新人警官らが花を手向けにやってくる。
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●バスの場合
西武秩父駅から西武バス「吉田元気村」ゆきで「龍勢会館」下車。椋神社方面に歩き、途中、龍勢橋を渡る直前を阿熊方面に入り、約200メートルの道沿い。
清泉寺
 11月1日の日中、戸長役場から逃走した警官隊は新志坂をのぼって清泉寺にたどりつく。そこに追いついた困民軍一隊の中から柏木太郎吉が大音声をあげ名乗り出て、警官の中のひとりと一騎討ちを演じるが、剣の達人であった警官に一刀のもとに斬られてしまう。
 柏木が苦しむのを見かねた門平惣平がとどめを刺し、柏木は絶命する。これが困民軍の死者第一号となった。
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●バスの場合
西武鉄道西武秩父駅から西武バス「吉田元気村」ゆきバス「龍勢会館」下車、徒歩1分
新志坂(「秩父事件殉難之地」碑)
 清泉寺山門のすぐ左脇にある細い坂道。広い車道に隠れて見つけづらいが、現在ここに石碑が建 ち、秩父事件の記憶をとどめている。前述のとおり、戸長役場を逃げ出した警官隊はこの坂を上って清泉寺へとたどりつき、それを追いかけてきた困民軍の一隊 の中から戦いを挑んだ柏木太郎吉が戦死した場所である。
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●バスの場合
西武鉄道西武秩父駅から西武バス「吉田元気村」ゆきバス「龍勢会館」下車、徒歩1分
椋神社
 11月1日夜、秩父郡中から借金に苦しむ養蚕農民たちが武器を手にして集まる。ここで田代栄助や加藤織平はじめ幹部組織と、軍律5ヶ条が発表される。
 午後8時、甲乙2隊に分かれて椋神社を出発。甲隊は下小鹿野から、乙隊は上吉田から巣掛峠を抜けてそれぞれ小鹿野町を目指し出発していく。
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●バスの場合
西武鉄道西武秩父駅から西武バス「吉田元気村」ゆきバス「龍勢会館」下車、徒歩5分
井上伝蔵邸(映画「草の乱」丸井商店ロケセット)
 困民軍会計長・井上伝蔵の経営していた商家「丸井商店」を、映画「草の乱」撮影のためにこの 地に復元したもの。道の駅龍勢会館の敷地内にあり、入場料150円を支払うと内部を見学できる。下吉田村井上にあった本物の丸井商店に住み込んでいた大工 の記憶を頼りに、間取りが忠実に再現されている。
 内部には映画撮影当時の小道具や役者の衣装、写真などが展示してある。。
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道の駅龍勢会館ホームページ
井上伝蔵墓
 会計長・井上伝蔵は、江戸時代から続く御用商人「丸井商店」の6代目。秩父事件に参加したの ち、北海道野付牛(現・北見市)で「伊藤房次郎」と名を変え、新しい家族をなし、大正7年まで生きる。死後荼毘に付され、弟の莱作(らいさく)が分骨を抱 いて吉田に帰り、万松寺にて葬儀を催す。そののちここに葬られた。
 因みに、6代伝蔵の墓の周囲には、4代伝蔵とその妻、さらにその妻の妹、そして、野付牛の高浜家の面々が葬られた先祖代々墓などがある。
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●バスの場合
西武鉄道西武秩父駅から「吉田元気村」ゆきバス「吉田総合支所」下車徒歩5分。旧丸井商店跡地の向かい側の畑の中。真向かいには吉田中学校がある。
井上伝蔵屋敷跡・井上善作屋敷跡
 困民党軍会計長・井上伝蔵の屋敷と「丸井商店」があった場所。現在その場所には案内版が建ち、井上伝蔵の肖像写真とともに往時の丸井商店の写真も見ることができる。
 またその「丸井商店」跡地の背後に建つ民家の場所に、兵糧方として活躍し、伝蔵とも親交があった井上善作の屋敷跡がある。事件後彼がどう逃亡し、いつどこで亡くなったかについても現在まで全く不明のままである。
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●バスの場合
西武鉄道西武秩父駅から「吉田元気村」ゆきバス「吉田総合支所」下車徒歩5分。
貴布禰神社
 「秩父暴動雑録」を記したことで知られる田中千弥が事件当時宮司をつとめていた神社。現在の本殿は近年に建て替えられたものであり、事件当時をしのばせるものは鳥居脇に建つ「貴布禰神社」の石碑だけである。この石碑の揮毫は田中千弥その人である。
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飯塚森蔵墓
 秩父事件で困民軍・乙大隊長をつとめた飯塚森蔵の墓。「秩父暴動雑録」の著者として知られる田中千弥が宮司をつとめていた貴布禰神社の脇にある。
 森蔵は事件の前には上州で学校の教員をしていたが、その職を辞したのち、下吉田に帰郷して借金据置・年譜返済などを要求する運動に加わる。事件の際は乙 大隊長として大宮郷突入の際には先陣を切るが、11月4日の皆野本陣崩壊ののちはその行方が全くわかっていない。長い間、井上伝蔵らとともに北海道に渡っ て生活していたと言われていたが、近年、大分県臼杵市、愛媛県八幡浜市から過去帳・戸籍などが発見され、九州・四国方面に逃亡し死亡したという説が有力と なっている。
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下吉田字井上・貴布禰神社脇
(※個人宅の墓地ですのでくれぐれもご留意ください。)
落合寅市墓
 高岸善吉・坂本宗作と並んで「困民党トリオ」と呼ばれる一人で、つねに負債減免請願運動の先頭に立ち続けた。
 武装蜂起に際しては乙副隊長で、本陣崩壊ののちは自ら一隊を率いて粥新田峠を越え小川方面に進出を試みるが、鎮台兵と遭遇し戦闘となり、木砲を発射したと言われている。
 そののち東京、大阪、高知など全国各地を転々とし、下関にて捕縛。服役し釈放されたのちは秩父にて救世軍の活動に加わり、事件の顕彰運動を真っ先に始めた闘士であった。
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上吉田・万年橋から石間方面に入り、車で5分程度



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