史跡めぐり案内(その他地域) - 秩父事件ホームページ




「秩父自由民権運動発祥之地」石碑
 皆野町日野沢、重木耕地への入り口となる場所に建つ石碑。ここから山奥に入って行った場所に、村上泰治や中庭蘭渓らの屋敷があった重木耕地があり、秩父自由党の発祥の地となった。
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金毘羅(琴平)神社
 明治17年10月31日夜、風布(ふっぷ)村と金尾村を中心とする農民たちが白襷白鉢巻姿に、刀や鉄砲・竹槍などを手にしてこの神社に集まり、午後7時、下吉田に向け出発した。武装蜂起の事実上のスタートである。  「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しなければ斬る」と、大野苗吉をはじめとするリーダーたちが叫びながら駆り出しを行ったことが農民裁判文書から読み取れる。
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●鉄道の場合
秩父鉄道「波久礼」駅から徒歩約60分
永保社跡
 金毘羅神社を出発した風布組の一隊は、まず最初に金崎村の高利貸・永保社を襲撃し、地券・証書類などを破却する。  当時の建物は現存せず、永保社があった跡地に、事件当時社長をつとめていた山田懿太郎のレリーフが残っている。秩父事件を中心に考えれば悪徳高利貸となりがちだが、実際の山田はその後の秩父郡内の教育界に多大なる功績を残した。
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●鉄道の場合
秩父鉄道「上長瀞」駅から徒歩約10分
常盤屋(加藤家住宅)
 甲乙2隊に分かれて出発した困民軍はその日の晩のうちに小鹿野町を挟撃。戸長役場、警察分署、高利貸などを次々に襲撃していく。  この常盤屋はその当時からこの場所に建つ商家で、ここも襲撃対象となるが、強引な手法をとって貸していたわけではなかったため、若干の打ちこわしのみで 済んだ。一方で、近所にあった高利貸・山二は大きく破壊され、タバケンは焼き討ちに遭っている。どちらもあくどい貸し方で農民を苦しめた高利貸だった。
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●バスの場合
西武鉄道西武秩父駅から西武バス「小鹿野車庫」ゆきまたは「栗尾」ゆきバス、「小鹿野町」下車すぐ
諏訪神社(現・小鹿神社)
 小鹿野を席巻した困民軍の部隊は、その晩、諏訪社(現在の小鹿神社)境内に夜営する。  この翌朝(11月2日)、いよいよ大宮郷に向けて進軍を開始する。
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●バスの場合
西武鉄道西武秩父駅から西武バス「小鹿野車庫」ゆきまたは「栗尾」ゆきバス、「小鹿野役場」下車徒歩10分
青木与市巡査の墓(碑)
 11月1日、下吉田にて捕虜となった巡査・青木与市は、甲隊の進軍とともに、11月4日には 大淵村の長楽寺にいた。そこで青木は突如として甲大隊長・新井周三郎を背後から斬りつけ、瀕死の重傷を負わせる。それを機に甲隊には動揺が走り、散り散り になってしまうが、この時青木巡査は困民軍に斬殺される。その地に現在でも碑が建つ。(秩父市内・札所15番少林寺にも後年墓が建てられた)
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●電車の場合
秩父鉄道皆野駅または親鼻駅下車、徒歩30分。皆野高校の高台下。
角屋跡(石碑)
 旧皆野村の中心部に近い、栗谷瀬の渡しへゆく道と本街道とが交わる場所にあった宿屋。秩父事 件が発生するにあたって、江夏喜蔵や鎌田冲太といった埼玉県警察部の幹部たちが本陣として詰めた場所であり、11月3日に困民軍の本陣がここに移動してき た。大淵村長楽寺前において甲大隊長・新井周三郎が青木巡査によって斬られたのち、田代は「ああ残念」と言ってこの宿を引き払い、加藤織平や高岸善吉をは じめとした幹部たちも散り散りになった。いわゆる「皆野本陣崩壊」の舞台である。  この地は現在は民家であり、玄関脇に角屋跡の石碑が建つのみ。見学の際はくれぐれも節度を守っていただきたい。
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●電車の場合
秩父鉄道皆野駅下車徒歩10分
東馬流古戦場(天狗岩)
 11月9日朝、菊池貫平総理と坂本宗作・村竹茂市らが率いる一隊がこの場所で高崎鎮台兵と遭遇し最後の戦闘を繰り広げる。死者13名を出し、近隣住民の女性ひとりも流れ弾に当たって死亡した。  10月31日から始まった秩父事件の組織的戦闘が終わった場所であり、こののち野辺山まで落ちのび、困民軍は四散した。
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●電車の場合
JR小海線「高岩」駅下車、南側へ向かって徒歩約10分
秩父暴徒戦死者之墓
 事件から50年目を目前にした1933(昭和8)年11月、菊池貫平の孫・麟平氏をはじめとする有志が建立したもの。当時は現在のような研究・顕彰活動の自由が許される時代であるはずはなく、建立が具体化するまでの苦労がしのばれる。
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●電車の場合
JR小海線「馬流」駅下車、徒歩約5分
秩父困民党散華の碑
 東馬流古戦場跡に建つ。大きな碑の横には、菊池貫平・井出為吉らの像があり、碑にはこの地で亡くなった13名の名前が刻まれている。佐久秩父事件百周年顕彰実行委員会が昭和59年11月に建てたもので、ちょうど事件から百年目の秋であった。
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●電車の場合
JR小海線「馬流駅」下車、徒歩5分
大野苗吉祠
 明治17年10月31日、秩父郡風布村から発した困民軍一隊が事件の号砲であったが、その風 布村の一隊を率い、甲隊の副隊長として大きな役割を果たしたのが彼で、「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しなければ斬る」といって村内を触れまわった うちのひとりが彼とされている。  皆野本陣崩壊後は自ら別働隊を率いて児玉方面に押し出し、金屋村での夜戦にて「進め進め」と号令しながら鎮台兵の銃弾に倒れ絶命と言われているが、詳細は現在でも謎のままである。
※都合により詳細な地図は掲載いたしません。ご了承ください。
大野国蔵墓
 風布村で大きな役割を果たしたリーダーのひとりで、事件前には村会議員もつとめていたほどの人物である。  事件に際しては信州・東馬流まで戦い抜いた闘士で、腹部に弾丸をかかえたまま風布まで戻ってきたといい、家族の手によりキリで弾丸をこじりだしたという伝説が残っている。
※都合により詳細な地図は掲載いたしません。ご了承ください。
金屋古戦場跡
 明治17年11月4日夜、風布村の大野苗吉と思われる幹部が率いた一隊が本野上から出牛峠を越 え、秩父新道を通って本庄方面に展開しようと進軍していた。ちょうどそのころ東京鎮台兵の一隊も高崎線本庄駅から児玉・八幡山方面に進み、児玉郡金屋村に さしかかったところで困民軍一隊と遭遇し、銃撃戦となった。午後11時30分頃と言われている。  苗吉と思われる大将が「進め進め」と号令し突撃を試みるも、鎮台兵の銃撃により戦死したと言われている。  この戦闘は極めて激しい白兵戦だった模様で、10名以上の死傷者を出して終わった。
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●電車の場合
JR八高線児玉駅下車、児玉総合支所(旧児玉町役場)から間瀬峠方面に直進しつづけると円通寺の参道が右側にある。その直前の道を右折したところ。
秩父事件死者之墓(円通寺)
 金屋の戦いで野戦病院となった円通寺の墓地内にある。「秩父事件死者之墓」と刻まれた五輪塔で、12名の使者を葬った墓である。  五輪塔は墓地の最も北側に位置し、秩父方面を向いて建っている。
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●電車の場合
JR八高線児玉駅下車、児玉総合支所(旧児玉町役場)から間瀬峠方面に直進しつづけると円通寺の参道が右側にある。
おんだし河原
 旧下田野村と皆野村とを隔てる場所で、荒川と三沢川が合流するあたりを言う。現在ここは「長瀞ライン下り」の出発地点として年間通して多くの観光客でごった返す。  秩父事件関係では、明治17年10月31日夜、風布村の大野福次郎率いる先発隊20名が皆野村方面に進もうとしていたが、ここで大宮郷警察署長斎藤警部率いる警官隊と遭遇し、12名が逮捕されてしまった。
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●車の場合
国道140号長瀞方面から親鼻橋を渡った直後、左折すると河原に降りることができる。
親鼻銃撃戦・古戦場跡
 前述のおんだし河原から上流を向くと国道140号線の親鼻橋が見える。このすぐ先(上流側)に 「親鼻の渡し」がかつて存在し、その周辺で11月3日の昼、憲兵隊と困民軍との間で銃撃戦が繰り広げられた。指揮したのは参謀長・菊池貫平と三山村の河原 三代吉と言われ、50名余の鉄砲隊が畳を立てて防ぎながら憲兵隊に銃撃を加えた。一方の憲兵隊も応戦しようとしたものの、携帯したスペンセル銃に弾があわ ず、やむなくピストルで応戦するというありさまであった。銃撃戦のすえ憲兵隊は撤退を余儀なくされた。
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●車の場合
国道140号長瀞方面から親鼻橋を渡った直後、左折すると河原に降りることができ、上流を見学することができる。



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