第56回 研究会


第56回 研究会
 8月25日・26日の両日、第56回秩父事件合宿研究会を開催。19名が参加して活発な議論が展開されました。研究会の詳細は次号でご報告し、今号では報告者4人による報告の概略を紹介します。

秩父事件、矢納村の戦闘
柏木 息

 秩父事件において官側(警察官)の殉職者が5名出ているが、その中の前川彦六巡査(群馬県警)だけは、困民党側に捕縛されたときの場所や時間、当時の状況が私にははっきり分からなかった。
 この報告は、いくつかの文献や尋問調書、また現地の山を数回歩き、私の推測も交えながらのものである。
 まず警察側の動きから。11月1日午後9時に群馬県警に農民蜂起の報が入る。約90名の警官が鬼石警察署を本部として集結。しかし皆野に「暴徒」3000名、大淵方面にも「暴徒」多数集結の報に接し、対応は困難と判断して鬼石に引き上げる。
 また別の隊27名は三波川村?保美濃山?神流川方面に出て隊を二分し、一隊は途中で2名を加え太田部から石間方面に進み、半納横道の戦闘となる。もう一隊は矢納村に進み、4日未明(午前2時頃)鳥羽集落に現れる。
 集落に寄留していた大河原鶴吉尋問調書によると、3日の午後8時頃、千鹿谷の大将(島崎嘉四郎)が来て、下より役人が登ってきたら、自分は高牛の森にいるからすぐに知らせてくれと依頼された。4日午前2時頃、警官隊が現れ、日野沢方面に向かうから道案内をさせられたが、これ幸いと思い用事があるといい暇をもらい自宅に帰る途中、姓名わからぬ人に会い、千鹿谷の大将に伝言を依頼した。警官隊は4日午前2時半頃、高牛集落を登り、奈良尾峠に5時半ごろ到着したと推測される。
 島崎嘉四郎は上日野沢村から矢納方面に偵察に向かい、矢納村には午後8時ごろ到着した。ここから嘉四郎の行動は不明だが、私の推測は、嘉四郎は姓名わからぬ人からの報告を受け、先回りして風早峠から小松に行き、4日の3時半、困民党の40名に状況報告し、午前5時半頃、奈良尾峠直下にさしかかったところ、上から拳銃を発砲され数名は逃げたが、新井悌次郎、柿崎義藤らが火縄銃などで激しく迎撃し、銃撃戦となった。そして逆に矢納村側に警官隊を追撃する。
 大河原鶴吉調書によると、4日午後4時頃に高牛に戻ると、最初に鶴吉が案内した巡査(前川彦六)が麻紐で両手を縛られていて、巡査の帯剣は誰かが奪い取り、巡査の腰にはサーベルはなかった。

亜細亜学館問題に関する一考察
黒沢 正則

 本稿は新藤東洋男著『自由民権百年記念出版 自由民権運動と九州地方―九州改進党の史的研究』(古雅出版)の記載事項をもとに亜細亜学館と秩父事件の関係について、これを考察したものである。
 まず、東洋学館(亜細亜学館)の設立について次のような記述がある。「1884年8月7日中国上海に開校した東洋学館は『自由党有一館の海外版』、『大陸志士の養成所であり、そのたまり場』であり、『アジア侵略の動向を表見した一つの事件に上海における東洋学館の設立がある』ともいわれている。この東洋学館の設立にかかわった人たちは平岡浩太郎、宗像政、樽井藤吉、中江兆民、杉田定一、日下部正一、馬場辰緒、長谷場純孝、栗原亮一、宇都宮平一、大内義瑛、山本忠礼、新井毫、小林樟雄、鈴木昌司、植木枝盛、末広重恭ら」
 さて、この中の宇都宮平一は、秩父事件時、秩父に近い現在の上里町にあった民権学校「発陽学舎」で英語教師をしていた。西南戦争に参加し、西郷を尊敬していたこの人物こそ秩父事件関係資料に名前が登場する西郷旭堂ではないか。
 たった1年余で閉じることになる亜細亜学館は本当に大陸志士養成機関だったのか。あるいは、激化事件関係者の逃亡のための施設だったのではないか。そして、宇都宮自身が大陸への逃亡民権家だったのではないか。資料が乏しいため、謎は謎のままである。
 設立主体は九州の自由党ともいうべき九州改進党の人々である。この組織に対抗してできた国権主義の組織に紫溟会がある。亜細亜学館の動きを探るために大陸に渡った佐々友房への同志からの手紙が残されている。そこには自由党解党のことや「昨夜東京より了解の電報」による秩父事件についての詳細な報告などが記されている。自由党に対立する九州の組織が「驚くべき事」として秩父事件を見ていたことやこの情報をさっそく大陸に伝えたことなど。この記録は重要だ。
 やはり秩父事件は日本を揺るがす大事件だったのである。

秩父事件終焉翌日に届出された冊子
鈴木 義治

 古本屋で見た小林孝雄著『近代川崎の民衆史』に事件収束翌日届出の『埼玉群馬絵入暴動実記』が川崎市麻生区古沢の旧家から出てきたことが取り上げられ、その実物を見たいと興味が引かれ、追いかけた。
 町田市立自由民権資料館にあるのでは、と出かけたが、なかった。後日、川崎市市民ミュージアムに出かけた。しかしここにもなかった。館案内コーナーで文書館を紹介してもらった。尋ねると、親切に対応してもらい、旧家であれば古沢荘一家であろう、と目録一千項目近くを複写していただいた。残念ながら探し物はそこにはなかった。
 一方、町田から自宅に帰って、小林本に推薦状を書いている色川大吉氏が『秩父事件史料集成』に係わっていることに気づき、繙いた。第6巻にあった。そして、それは表紙が取れた状態で小鹿野の商家に見つかり、集成に提供したのが品川栄嗣氏であることを事務局会議で知って大変驚いた。
 所沢市で現物が見つかった。県立博物館で開かれた「埼玉の自由民権運動展」解説目録や佐藤美弥氏の県博紀要論文の中に、この冊子が所沢市岩岡家文書にあり展示されていたこともわかった。
 所沢市生涯学習センターに岩岡家文書を見に行った。福沢諭吉の書籍や演説会勧誘の書簡など目を引き、岩岡美作は「睦交社」を結成する民権家であった。小冊子の完全版も複写できた。
 研究会で三木伸一氏の「ちょぼくれ」(2016年報告)との対比もした。
 小冊子を追いかけて少しずつ事実がわかってゆく楽しみが、今も続いている。

秩父事件像再構築のための覚え書き
吉瀬 総

 最初に「歴史とは何なのか 地方史とは何なのか」について、「日本史」なるものは廃藩置県まで存在しないということを述べた。存在した歴史は「日本列島上の〈大地〉に生きた人々の諸活動の総体」(黒田日出男『龍の棲む日本』)だと述べた。自由民権運動についても、それはあてはまると考える。
 次に「農民」について述べた。人が「食っていく」手段として、食糧を生産すること(「農」の営み)と、食糧以外の必要物と交換するために貨幣を入手すること(諸稼ぎ)の二つがあり、山間部において「農」の営みの占める割合は大きくないということを述べた。
 江戸時代の秩父において生業中に養蚕・絹織業の占める割合が次第に増え、明治以降、養蚕・製糸モノカルチュアとも言える状況が現出し、経営リスクを高めたのではないかという点については、さらに検討してみたいと思う。
 どのような近代日本を創出するかをめぐって、明治専制政府と対峙したのか自由民権運動だった。民権運動はそれぞれ地域の具体的課題に即して闘われたというべきである。秩父における自由民権運動の具体的姿である秩父事件を、愛郷者的運動として位置づけたい。指導者たちの念頭に革命や立憲政体の樹立があったのは事実だが、彼らはまず、秩父(および西上州・佐久)という地域の暮らしを守るために闘ったのも事実だからである。



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