「秩父困民党無名戦士の墓」について

 秩父事件を紹介する出版物に「秩父困民党無名戦士の墓」の写真を添付する事例が多く見られます。今年に入ってからも朝日新聞出版『日本の歴史 38 自由民権と帝国憲法の光明』(2014.3発行)新聞『赤旗』11月4日付記事(抗議により翌日謝罪記事を掲載)がありました。この碑について秩父事件研究顕彰協議会は次のように考えています。


 札所二三番音楽寺の境内に、「秩父困民党無名戦士の墓」という石碑が建てられている。
 音楽寺は、明治17年11月2日に、秩父困民党軍が大宮郷突入を前にして結集した場所であり、もちろん、戦死者もいない。また、秩父困民党軍の無名戦死者がここに葬られたという事実も存在しない。この石碑は従って、その題字に反して墓ではないのだが、現地にはそのことの説明はない。
 碑面には、「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」とあり、この碑の趣旨を刻した副碑には、「債鬼の脅迫をのがれ家に老幼をおき山野を放浪するまでに貧困の極に達した秩父の農民」あるいは「時の明治政府に対して自らの持つ実力で立ち向かった秩父困民党」などという文言がある。
 この碑が建てられたのは1978年だが、当時の研究は、秩父事件指導者が経済的に村内上層に属していたことを明らかにしつつあった。また秩父事件の持つ政治性については、困民党発起人の一人である落合寅市が、「圧制ノ政治ヲ回復シ自由ノ大義ヲ敷カントスルヲ暴動ト称スル者ゾ」(「秩父殉難志士慰安建碑趣意書」)と力説していた。寅市に始まる秩父事件顕彰運動の原点は暴動と呼ばれることを拒否することにあったのである。
 秩父事件の政治性を否定して持ち上げようとする「褒め殺し」的言説は、その後も、趣を変えては生起している。近年では稲田雅洋氏の「困民党の論理と行動」(『自由民権と近代社会』2004所収)が秩父事件を「日本の民衆が、政治権力を独自の方法で相対化していった貴い記念碑的な道筋」と評している。音楽寺のこの碑こそ、そのような言説が存在した「記念碑」にほかならない。
文責・吉瀬総(秩父事件研究顕彰協議会会報『秩父』No.159)

 秩父事件を「暴動」「暴徒」と貶める見方に私たちは断固として反対します。秩父事件像が正しく伝えられるよう、これからも尽力していきたいと考えます。

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