史跡めぐり案内(上吉田・石間周辺)

加藤織平墓
 秩父困民党副総理。博徒の親分と言われる一方で、金に困った農民たちに対して金を貸すなど面倒見の良さがあり、「質屋の良助」と呼ばれていた。
 事件後は高岸善吉とともに東京に逃れるが東京神田にて捕縛され、翌年5月に熊谷監獄において死刑となる。
 この墓は落合寅市が発起人となって建立したもので、台座には「志士」の文字を彫った。当時の官憲から削るようにと命じられるが寅市は突っぱねたと言われている。
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●車の場合
万年橋から石間・大田部方面に入り、約5分。
坂本宗作墓
 困民党トリオのひとりで、養蚕の傍ら副業として鍛冶屋を営んでいたため「鍛冶屋の宗作」と言われる。
 高岸・落合とともに負債減免請願運動から参加し、事件では伝令使として「悟山道宗信士」と白鉢巻に戒名を記し11月9日の東馬流の戦いまで最も長い戦いを続けた闘士であった。
 事件ののち日尾で捕縛され、翌年6月に死刑執行される。そののち長い期間にわたって家族は苦労を強いられ、宗作の墓は人目に付かない山の斜面に、隠れるようにひっそりと建つ。
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●車の場合
県道37号線沿い。大棚部入口から約100メートルほどの道沿い。
高岸善吉墓
 坂本、落合とともに最も初期から負債減免請願運動を展開していた。養蚕とともに副業で染物業をやっていたとのことで「紺屋(こうや)の善吉」の異名をとる。
 事件では上吉田小隊長であったが、飯田・三山・河原沢や両神方面まで走り積極的に駆り出しを行うなど重要な役割を担うリーダーであった。
 事件後、加藤織平とともに東京まで逃亡するが神田にて捕縛され、翌年5月、刑場の露と消える。
※都合により詳細な地図の掲載はいたしません。ご了承ください。
島崎嘉四郎祠
 「千鹿谷の大将」こと島崎嘉四郎を祀った祠。事件当時26歳だった嘉四郎は日尾・藤倉の駆り出 しを行い、皆野本陣が崩壊したのちは30名ほどを引き連れて菊池貫平隊に合流し信州を目指した。信州野辺山での消息を最後に行方不明となったが、そののち 「千野多重」を名乗って甲府で潜伏生活をしていたことが判明。1919年・大正8年まで生存していたのである。
※都合により詳細な地図の掲載はいたしません。ご了承ください。
半納の横道
 11月4日午後3時ころ、群馬県から出張してきた警官隊(偵察部隊)と、島崎嘉四郎・新井悌次郎らが率いる困民党軍の一隊がここで衝突した。
 困民党軍に待ち伏せされ、一斉射撃によって警官隊は大いにあわてた。その混乱の中で隊長だった柱野警部が戦死し、「堂の尾根」と呼ばれるこの地に斬られた首が立てられたという。
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●車の場合
年代橋から石間方面に入り、石間交流学習館や沢戸集落を越え、城峰神社の鳥居をくぐってしばらくいくと半納集落に入る。その手前。
石間交流学習館
 現在は廃校となっている旧石間小学校の校舎を使用し、秩父事件資料館として利用されている。そのほか様々な体験学習を通して山国の生活に触れることができるという多目的施設となっており、多くの子供たちが利用している。
 秩父事件関係史料としては、根岸君夫氏の手による絵画の展示や、襲撃され傷ついた高利貸の家の柱、さらには困民党幹部たちの蔵書や書き物など多彩な展示を行っている。さらに秩父事件の解説ビデオ上映や養蚕・生糸・絹織物などの解説展示も充実している。
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