第48回フィールドワーク「長瀞風布を歩く」参戦記

 私は飯能生まれの飯能育ち。数年前に「武州世直し一揆の会」に入会し、まだ勉強中で秩父事件について全くの素人ですが第48回フィールドワークに参加した。
 私は山歩きが大好きで、裏山である天覧山・多峯主山をよく歩いている。このコースでも歴史建造物等も、たくさん目にすることができる。そして年数回は百名山またはそれに類する山へ友達と出かけている。その時でも寺院など極力見学するようにしている。そして武州一揆の会のフィールドワークのように名栗方面も何回も歩いて学んだことを思いだし、今回のフィールドワークが私にとって秩父事件を学ぶ手掛かりになるのではないかと期待を胸に参加した。
 晴天の平成30年11月10日(土)飯能駅発7時52分発の長瀞方面行きの電車に乗車。長瀞駅には9時30分集合で参加者は28名だった。受付では、地元で収穫されたと思われる蜜柑を頂いた。コースは長瀞駅から金石水管橋から大野家・墓等を巡り風布集会所で昼食後蓬莱島公園、長瀞駅まで。
 長瀞駅を出て歩いて15分ほどで金石水管橋に到着。この橋は、生活道路の他、水道水を送る内径350ミリの水道本管を併設し、水道橋の役割も持ち合わせている。歩行者および自転車専用の橋になっている。橋が開通する以前は「金石の渡し」と呼ばれ私設の渡舟場だった。水道橋の開通により廃止された。渡舟場小屋の基礎や鉄線を巻き上げる鯱台が残されているほか、両岸にある視線場への路も現存している。
 橋を後にして蓬莱島公園入口でトイレ休憩の後、塞神峠へと進む。私は登山用の靴を履いて参加したのでぬかるみのある山道でも難なく進むことができたが、他の人が心配になった。さらに山道は続く。そして蕪木入口を通過して、大野福次郎家へと向かう。
 江戸期、風布村は忍藩に属していた。村人たちは農業、養蚕を生業としていた。農閑期には男は炭焼き、女は機織りに従事していた。その養蚕により作り出される生糸の値段が政府が進めていたデフレ政策によって大暴落し、生糸の下落は農民の借金を増大させた。追いつめられた農民が一斉に蜂起したのが明治17年11月1日だ。
 風布村の農民は、それよりいち早く行動し、荒川を超え西谷にある椋神社に集合するため、前日の10月31日に風布を立った。
 先発隊を指揮して山を下り、荒川に沿う下田野村で、大野福次郎は大宮郷警察署長の率いる警察官に捕まってしまった。
 風布集会所で昼食後、大野国蔵家へと向かう。大野国蔵は、明治16年村会議員に当選。大野長四郎らと共に信州隊に加わり、11月9日の東馬流の戦闘で脇腹に弾丸を受けたまま、山河を越えて風布に戻った。家族の手により、キリで弾丸を抜いたという。明治18年1月31日浦和重罪裁判所熊谷支庁で罰金15円の判決を受けた。
 その後蓬莱公園、金石水管橋を通り長瀞駅へ。私は一日数本しかない貴重な直通の飯能方面行きの電車に乗り、帰途についた。
 私は今回初めての参加、秩父事件そのものが理解できていない中での参加ではあったが、主催者側の説明や配布物に細かい説明が記載されていて大変有意義な時間を過ごすことができ、また次回もぜひ参加してみようと思った。(渋谷勝男記)

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