第59回研究会

 二〇二〇年代に入って最初の秩父事件研究会が、一月一一日に行われた。出席者は九名と、少々寂しかったが、鈴木義治さんの「秩父困民党員・柳原正男・墓誌と女形に残った『ちょぼくれ』を読む」と、吉瀬総さん「明治一七年・埼玉県北部の負債民の動向」の二本が報告され、充実した論議がかわされた。

鈴木義治「秩父困民党員・柳原正男・墓誌と女形に残った『ちょぼくれ』を読む」
 鈴木義治さんからは、「秩父困民党員・柳原正男・墓誌と女形に残った『ちょぼくれ』を読む」と題するご報告をいただいた。 鈴木報告の要点は、大きく言って二点あり、一つは上吉田村のオルグ・柳原正男が秩父困民党に参加した経緯及び日清戦争の軍夫に志願したこととの関係についてだった。
 柳原正男は、対高利貸交渉や山林集会など、秩父困民党組織化の過程で活躍した人物だが、武装蜂起直前の動きはよくわからない。新志坂の戦い後にサーベルと警帽を着していた事実があるから、武装蜂起当初には積極的に参加したようだが、役割表には名前がなく、さらに、本格的な戦闘が行われる前に、戦線を離脱したらしい。総決起の際に新井周三郎と悶着があったと正男は語っているが、周三郎はそのことを否定している。
 ともかく、柳原正男は、国家と戦う意思を早い段階で喪失したと思われる。その原因はわからないし、また重要な問題でもない。
 裁判で、彼は軽懲役六年六月の言渡しを受けて服役する。行為に対する量刑としては明らかに重すぎるが、困民党組織過程で彼が果たした役割を評価されたのだろう。
 出獄後、彼は結婚(のち離婚)し、日清戦争の軍夫に志願し参戦して、遼東半島で病死した。
 柳原正男については、河田宏氏が、『日清戦争は義戦にあらず』(二〇一六・五 彩流社)という小説の中で、彼の心根を描こうとしている。この書はもとより創作であり、歴史学的な著作としての性格を有するものではない。河田氏は、正男の心情を、日清戦争は朝鮮の農民たちを助ける義の戦いだと考えて参戦したが、じつはそうでないと悟ったという形で描こうとしている。
 鈴木さんはその点について、特に言及されなかったが、墓誌を見る限り、正男は朝鮮半島に足を踏み入れていないから、甲午農民戦争を戦った民衆との接点はなく、河田氏の想定は成り立たない。
 日清戦争はそもそも、草の根からの国家意識を扇動する一大イベントでもあった。大阪事件に見るように、自由民権派自体が、朝鮮を国内改革の道具とみていた。
 自由政府の実現のための闘いと朝鮮半島への野望が、進歩的な民衆の中にも併存していたというのが歴史の現実であり、われわれが直視し、克服しなければならないのは、そうした歴史であろう。
 鈴木報告のもう一つの柱は、柳原正男の故郷である上吉田村女形耕地に残されていたという、ちょぼくれについてだった。
 ちょぼくれは、今は消滅して伝承者のいない口承芸で、卑俗な身辺雑事からその時々に人々の口の端にのぼる時事的な内容を庶民目線で語りおろしたものらしい。語りの芸ではあるが、木版刷かと思われる小冊子化されていることもある。
 三木伸一さんによれば、秩父事件をテーマとするちょぼくれは『秩父事件史料集成』に収録されたもの以外に、複数存在する。
 鈴木さんが紹介されたものは千嶋寿さんが発見されたもので、三木さんが紹介されたものとも異なっている。つまり、秩父事件ちょぼくれは、印刷されたものだけでも数種類があることから、ちょぼくれ師が語り歩いた口承を含めれば、相当数の「秩父事件芸」が語られていた可能性が高い。その中には、秩父事件を揶揄するものもあっただろうが、一面の真実を衝いたものもある。
 それは当時も、秩父事件に対しさまざまな見方があったことのあらわれである。
 今となってはフシも内容も復元不可能だが、くどきや阿呆陀羅経といわれるものを含め、口承文芸にみえる秩父事件について、広く概観してみたいと感じた。
(吉瀬総)

吉瀬総「明治一七年・埼玉県北部の負債民の動向」
 吉瀬総報告「明治一七年・埼玉県北部の負債民の動向」は、昨年の信州小海集会で、時間不足のため不十分にしか報告できなかったので、事務局から再報告を要請したものである。 関東・甲信地方が養蚕製糸業を主たる産業としており、一七年には松方デフレ下各地域独自に負債民の活動が活発にみられた。在地自由党を視野に入れて、その活動がどこに、どのような活動を行っていたかを、埼玉県北部(児玉郡・大里郡)に絞って解明した。
 結論的には経済課題を共有した地域負債民たちが秩父困民党に連携する「広域的な武装蜂起としての秩父事件」という見方を報告は探っている。それは菊池寛平の行動に照らせば、「秩父の敗北には落胆してはおらず信州こそ本番」との意識に通ずるという。
 江戸時代以来の生糸景気は蚕業革新によって上武州国境(島村・児玉町・高山村)、富岡製糸場、揚返し会社叢生など好況状況をつくっていたが、それを松方デフレ策が破壊したこと、その対応を児玉郡新里村周辺の延期党、児玉町の天諭文、妻沼周辺、石原村、人見村、岡村の動向で追っていった。
 なかでも、大野又吉(軽懲役七年)を組織者とする岡村困民党の動向を詳述した。又吉のオルグした平野部への目線、さらにその又吉をオルグした藤谷淵村の柳由平を喚起している。「各地で負債民による自然発生的な動きの存在」、それら地域に「組織者が存在すれば広域的な運動に合流していく可能性があったこと」を指摘し、「自由党員につながる困民党在地オルグの活動があって初めて、武装蜂起が可能になったことがうかがえ」、「秩父困民党は秩父地方だけの蜂起を想定していたのではなく、十分な組織化までには至らなかったとはいえ、埼玉県北部など、より広範囲な共同行動を志向していたことがわかる」等々の指摘を地図、図解を通して提示した、興味深い報告であった。
 明治一七年の民衆状況については杉山宏氏の「『延期党』の顛末―埼玉県男衾郡畠山村の負債農民騒擾」(『民衆運動の〈近代〉』一九九四)、内田満氏の『一揆の作法と竹槍蓆旗』(二〇一七)があり、今後とも広域化した目線で秩父事件をみてゆきたい。また中澤市朗氏の「大野又吉探求」(『秩父事件研究顕彰』一九七六、『秩父事件探索』一九八四)も振り返ってみたいものである。
(鈴木義治)

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