第58回 研究会

第五八回秩父事件研究会速報
 恒例の夏の研究会、第五八回秩父事件研究会は、八月二四・二五の両日にわたって秩父市福祉女性会館で行われ、二日間で、一六名の方々にご参加いただきました。

森永優子「落合寅市の思想形成と顕彰活動」
 報告者がこのテーマを選んだのは、井上幸治『秩父事件』(中公新書)で寅市が「出獄後故郷に帰ったときにはすでに国権主義の洗礼を受けており、秩父事件にかんする意向も全面的には信頼できない」という記述に疑問を持ったからだという。ここには民権主義=善、国権主義=悪という認識があるのではないか。
 そもそも民権主義と国権主義は対立概念なのか、と報告者は問う。そこで安丸良夫の定義、自由民権運動は「『民権=国権』型の政治思想が広範な民衆の願望や伝統と触れあって独自の政治文化を形成した創造過程」。また狭間直樹の定義、「『国民』の観点から論ずるときには民権主義(中略)『国家』の観点から論ずるときには国家主義」。両者は対立するのではなく「いわば楕円が二焦点をもつように、二つの軸心」をもつ、を引用する。
 報告者はこの前提に立って、落合寅市の「秩父殉難志士慰安碑趣意書・理由書」の論旨を分析する。
 それによれば、趣意書は?五箇条の誓文は重要、?自由民権が起こる、?秩父でも主張に共鳴して決起、?その目的、?実力行使へ、?反省すべき点、?憲法発布とそれにともなう大赦への感謝、?同志への同情と慰霊の決意、?協力要請に及ぶ。
 報告の第二の柱は、事件後の寅市の思想と活動を考える上で重要な四つの要因をあげる。
 ?急進的自由民権活動家からの影響、?大赦と天皇観、?キリスト教(寅市はキリスト教に触れ、救世軍に加わる)、?立憲政友会政治家および落合の自由民権運動・秩父事件顕彰活動。
 特に?について。大阪事件関係者は国会開設と共に衆議院議員に当選し、日露戦争後は顕彰活動を展開する。具体的には「加波山事件殉難志士」表彰に関する建議(一九一〇)、「大阪事件記念碑」(総持寺一九三一)、「落合寅市之墓」。報告者はここで寅市と小久保喜七との関係に注目している。
 質疑討論では、「加藤織平之墓」は明治末年建立と聞いているが、「加波山事件殉難志士」表彰に関する建議の時期と考えていいのか。「思想」というより「意識」といった方がいいのではないか。後者に関しては「その人(寅市)なりの信念は思想と言えるのではないか」と報告者は答えた。また寅市自身は民権と国権をどう考えていたのかなどの質問があり、明確な回答はなかったが、この報告は、刺激的なものだった。
(篠田健一)

高島千代「幕末・明治期の薄村『木公堂日記』を読む」
 高島さんの精力的なご研究によって、幕藩制時代から明治初年にかけての秩父地方の経済構造や民衆意識が見えてきつつある。
 かつて(四〇年ほど以前だが)の私の認識は、「秩父地方は主穀の自給は不可能。食糧不足と諸上納を全うするには農間諸稼ぎが不可欠で、代表的な稼ぎは養蚕・絹織だった。幕末に至って、農民層分解が激しく進行し、豪農の対極に位置する半プロレタリア層が世直し騒動の中核となった」というものだった。
 その後、網野善彦氏や白水智氏などの著書にふれ、また山村の暮らしに関するルポや聞き書きなどに接して、山村の経済構造はそのように単純化できるものではないし、またおしなべて貧困イメージで描くことが必ずしも適切でないことに思い至った。
 また、山村に暮らした人々を「農民」と呼ぶことが的を射ていないだけでなく、あたかも彼らが農の営みを生活の基軸としているかのような誤解を招く表現であることに気づいた。それでは、どのような山村像を描けばよいのか。 秩父の村は大きく三種類に分類できるのではなかろうか。
 (a)は、市街地を有し、産品の集散地であって商業資本が生まれつつあるような村である。大宮郷や上小鹿野村、下吉田村などの中心地などがそうである。
 (b)は、ある程度の畑地・田地を有し、百姓によっては、農の営みによる自給が可能な村である。
 ここは、秩父盆地・小鹿野盆地・吉田盆地の周縁や、荒川・赤平川べりに展開するある程度の面積の平坦地に展開する村々であり、秩父の相当数の村々がここに含まれる。これらの村々の後背に存在する里山(稼山)は、何より秣場・燃料採取地として死活的な意味を持っており、村内には炭焼き・紙漉き・絹織その他の諸稼ぎで渡世する人々も存在した。
 (c)は、平坦地のほとんど存在しない傾斜地に立地する村である。ここでは、農の営みは生活の中心をなしておらず(農の営みは焼畑が相当部分を占める)、百姓は諸稼ぎによって生活を立てている。
 ここでいう諸稼ぎとは、木材の伐採・製材・製炭・木工品作り・狩猟・魚とり・鉱業・林産物採取・衣類作り・運送業・観光業(三峰村)などである。これらの村々に水田は存在せず、畑地も屋敷の周囲にごくわずかあるだけで、村高も低位であるため、年貢賦課も(a)・(b)の村々に比べ低廉だった。
 武州一揆や秩父事件などのような大きな民衆運動を担ったのは、そのうち(b)の村々だった。
 高島さんが分析されている薄村も(b)に含まれるが、両神山の山ひだ奥に展開する耕地は(c)に近い。高島さんは報告で、近世秩父の山仕事について中紀雄氏と貝塚和実氏の研究に依拠して論じられているが、ここで述べられているのは、どちらかといえば、(c)の村々の実態のように思える。今後、(b)にあたる村々固有の産業構造を分析する必要があろうと思う。
 何ら実証できていないが、(b)の村々についての見通しを述べておく。
 米の自給は困難だが、焼畑(豆類と雑穀生産)農業の必要は少なく、小麦・大麦はある程度自給できると思われる。農の営みだけで生活を維持することは多くの場合困難で、何らかの諸稼ぎによって収入を得なければならず、稼ぎの中心は養蚕・絹織である。農の営みが広範に行われている以上、後背にある里山の利用は秣場ないし刈敷材料の採取が中心にならざるを得ず、諸稼ぎにおける木材の伐採や製炭の比重は低いだろう。
 自分の関心が幕末の産業構造の分析にあったので、高島さんの木公堂日記分析について、紙数の関係でふれることができなかったのは申し訳ない。ともかく、こうしたきめ細かな分析が今後、必要なのではないかと思う。
(吉瀬 総)

中紀雄「近世における秩父地域の薪炭生産と流通の研究」
 中紀雄さんからご報告をいただいたが、江戸時代の秩父地方の農間諸稼ぎについて具体的な研究に接したのは初めてだったので、たいへん興味深かった。
 報告は、忍藩秩父領と天領大滝村の炭生産・流通に関してだった。高島報告感想で、秩父地方の山村を三種類に分けてみたが、忍藩領はここで言う(b)に含まれ、新旧大滝村は(c)に含まれる。報告によれば、忍藩領と天領とでは、製炭が生活に占める意義がかなり異なっていたようである。忍藩領で炭は事実上専売制で、藩は極めて安価に炭を買い上げており、転売の利ざやは、藩財政の一定部分を支えていたと思われる。
 しかし、忍藩領村々の後背の山は関東平野周縁にあたり、古くから住民に利用されてきた里山である。里山は製炭にだけ利用されたとは限らず、秣場・芝刈り場・薪取り場・焼畑など、村人の生活に不可欠な各種物資を提供するところだったから、資源の枯渇は必然だった。
 忍藩領村々の里山が全体としてどのように利用されていたのかなどを、山論などの分析によって明らかにすることができるのではなかろうか。
 天領大滝村の山林は、御林(奥山で百姓は原則として立入禁止)・百姓稼山(村の比較的近くに位置し百姓の立ち入りが許される山)・百姓持山(百姓が所有し耕地に接続する山)で、稼山と百姓持山では、郡内で流通する程度の小規模な製炭が行われていたのだろう。
 御用炭生産が始まったのは、記録ではかなり遅く、文化年間以降だという。御用炭を出すとなると、大量生産するための製炭労働者が必要となり、運送手段の確立も必要となる。ともかく、文化・文政期から大滝村でも、幕府御用炭の生産が始まった。御用炭生産は、おそらく村にとって負担になったと想像されるが、一方で収入の拡大につながった可能性もある。
 村にとって御用炭生産とはどのような意味があったのか、もっと知りたい。
(吉瀬 総)

村田嘉行「秩父事件で戦死した窪田・青木両巡査」
 研究会二日目の二番目の報告は、長瀞在住の村田嘉行さんによるご報告だった。
 この報告は、多くの資料に基づいて、窪田巡査殺害の真相(窪田巡査らは何故不可解な行動をとったか、殺害は仇討ち目的か、殺害者は誰か、など)、青木巡査の殺害までの経緯(捕縛地はどこか、殺害地はどこか、など)、両巡査の本葬祭についてなどを解明したものである。
 当初この感想は小美野隆さんが書くことになっていたが、当日欠席されたため、急遽私が書くことになった。
 家に帰って、あわてて研究顕彰協議会の『秩父事件―圧制ヲ変ジテ自由ノ世界ヲ』、『ガイドブック秩父事件』を読み直して、両巡査殺害の概要が多少わかってきた。
 以下の感想は、現時点で、私が理解できた内容を書くことにする。
 秩父困民党の蜂起は一一月一日だが、前日の夜、新井周三郎たちは金崎村の高利貸、永保社を襲撃する。翌一日、この事件の捜査のために、警官隊二三名が阿熊村に現れる。困民党側は逆に警官隊を追撃する。警官隊は、守岩太吉宅、清泉寺、下吉田村戸長役場と逃げ回ったが、その過程で、窪田鷹男巡査、青木與市巡査が困民党に捕縛され、殺害された。
 今回の報告で、窪田巡査については、?窪田巡査が捕縛されたのは、守岩太吉宅から清泉寺に逃げる途中だったこと、?窪田巡査は、警官服のまま逃げたこと、?他の警官とは別な道を逃げたこと、?窪田巡査が殺害されたのは、清泉寺の闘いの後なので、柏木太郎吉は犯人ではないこと、などが明らかになった。
 青木巡査については、?捕縛地が戸長役場から吉田川を渡った広瀬の地だったこと、?殺害されたのは、長楽寺から秩父新道を三〇間東に行った道路の反対側だったこと、?守岩太吉は、長楽寺から秩父新道を四七間東に行った所で殺害されたことなどが解明された。
 両巡査の本葬祭は、県首脳、県警、地元有力者や、大宮郷住民が参加して盛大に行われた。
 この葬祭は、秩父事件が暴徒、暴動だったとの見方を定着させ、県・警察の地域住民への求心力を高めることに利用された。
(伊東 洋一)

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