追悼 金子兜太先生

篠田健一

 俳人の金子兜太先生が永眠されたことは前号でお知らせした。亡くなった翌日の新聞がそのことを掲載したが、私の見た限りでは金子先生と秩父事件とのかかわりを報じたものはなかった。
 金子先生が秩父事件に造詣が深かったことはあまり知られていない。
 先生はわが会発足時からの会員であった。旧制高校時代に校友誌に秩父事件について小論を書いていたように、秩父事件との付き合いは長かった。
 私と金子先生との出会いは1976年11月、秩父市で開催した秩父事件92周年記念集会であった。金子先生は「私の中の秩父事件」と題した記念講演を行った。内容は会誌2号に掲載してある。関心のある方はお読みいただきたい。
 ところで、金子先生が記念講演の講師になったのはなぜなのか。実は、秩父文化の会が事件92周年に向けて「秩父事件の源流をたどる」のテーマで中沢市朗さんと金子先生の対談を企画した。それは『文芸秩父』17号の「特集秩父事件92周年」の巻頭を飾っている(後に中沢市朗『秩父事件探索』新日本出版社に収録)。これを読めば、金子先生が事件を深く認識し、特に人物とその人間関係に造詣が深いことが理解できよう。
 この対談が縁となって金子先生の記念講演となったのである。
 この対談で私が注目したのは、この発言である。

「どんな高邁な思想があたえられても、秀れた人物が媒介していかなければ、それは民衆の中に絶対入っていかない、その思想と民衆の結びつきのところに、インテリゲンチャがいるわけですけど、人間としても卓抜した人でなければならんと私は思うんですよ。
 そうすると、一方に清潔でまともな生活思想者としての中庭蘭渓があり、もう一方の側にですね、養蚕でお金を儲けるとバクチをうったり義太夫語りでも呼んできてやったりですね。時には祭りの元締めもやる、俳諧師でも呼び、酒盛りでもして娯楽に走る農民意識があるわけです。こういう農民意識の味方となった男として、僕は副総理になる加藤織平を設定できると思っていますね。そういう面――遊びの面での支援者でもあったけれども、あれは金も平気で貸すし、それから私の乏しい知識でいうと、佐久の菊池貫平と井出為吉も、あそこへ草鞋をぬいだですね。さらに例の秩父困民党三羽烏ですね、落合寅市、坂本宗作、高岸善吉、これらも織平を軸にしています。それにたぶんね、井上伝蔵と三羽烏の結びつきは、織平が軸じゃないかと僕は思います。(中略)こうして人の動きを見てみると、加藤織平という男は秩父事件の実質上の中心人物といって良いのではないかと私は思うんです」

 数年前の研究会で、私は加藤織平をなぜ調べようとするのかという報告をしたが、それはこの金子先生の発言があったからである。その後研究は止まっているが、これを契機に本格的に「加藤織平ノート」を作ってみようと思っている。
 金子兜太先生、長い間ありがとうございました。
 どうぞ安らかにお眠りください。合掌

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