「秩父困民党無名戦士の墓」について

 秩父事件の参加者は長く「暴徒」と呼ばれてきました。「暴徒」とはどんな人を指すのでしょうか。辞書には「暴動を起こした者ども。乱暴を働くやから」とあります。者ども、やから(輩)ということばに否定の意味がこめられています。明治政府にとって、まさに否定すべき存在だったのです。
 秩父事件最後の激戦地・東馬流に「秩父暴徒戦死者之墓」があります。


 秩父事件50回忌の1933年11月9日、長野県南佐久郡穂積村(現小海町)東馬流に写真の墓碑が建てられた。49年前、秩父事件最後の激戦が行われ、13名の農民が死んだ。引き取り手のなかった9名の遺体がこの奧に葬られた。墓碑はこの農民たちを祀った墓である。
 墓碑には「菊池貫平孫共之建」と刻まれている。建立の中心者は貫平の次女志満の長男高橋中禄、貫平の長男音之助の長男麟平らである。麟平によれば、貫平が北海道十勝監獄から佐久に帰った時が58歳、死んだのが67歳で、この間もっとも親しく貫平に接したのは高橋中禄だという。中禄と麟平と外孫の忠三が発起人となり、孫たちに連絡を取りあって実現した。
 集まった資金は118円。だが、大きな石を運ぶのに請負の金だけでは足りず、従兄弟たちの勤労奉仕を含めて計算すると180円台になったという。
 墓碑の揮毫者は秩父自由困民党の本陣となった井出直太郎(当時立憲改進党員)である。揮毫をお願いしたのは高橋中禄である。
 満州事変の2年後が墓碑建立。同年3月に日本は国際連盟脱退、4月に滝川事件、この年の治安維持法による検挙者4288人。軍国主義が吹き荒れ、民主主義的活動が弾圧されていく時代であった。
文責・篠田健一(秩父事件研究顕彰協議会会報『秩父』No.155)

 この墓が建てられたのは、このような時代でした。しかし、墓の脇に立てられた小海町教育委員会の解説(昭和55年10月)には次のように記されています。

事件後90年を経過して「騒動」「暴徒」として恐れられて、かえりみる者もなかったこの墓に、ようやく参拝者、見学者の姿が多くみられるようになった。

 感慨をもって結ばれています。それで、解説文のタイトルは「秩父事件戦死者の墓」と改められているのです。
 否定から肯定へ、評価の転換に長い年月がかかりました。しかしながら「暴徒」ということばは未だになくなっていません。そのことは何を意味するのでしょうか。

 札所二三番音楽寺の境内に、「秩父困民党無名戦士の墓」という石碑が建てられている。
 音楽寺は、明治17年11月2日に、秩父困民党軍が大宮郷突入を前にして結集した場所であり、もちろん、戦死者もいない。また、秩父困民党軍の無名戦死者がここに葬られたという事実も存在しない。この石碑は従って、その題字に反して墓ではないのだが、現地にはそのことの説明はない。
 碑面には、「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ暴動といわれることを拒否しない」とあり、この碑の趣旨を刻した副碑には、「債鬼の脅迫をのがれ家に老幼をおき山野を放浪するまでに貧困の極に達した秩父の農民」あるいは「時の明治政府に対して自らの持つ実力で立ち向かった秩父困民党」などという文言がある。
 この碑が建てられたのは1978年だが、当時の研究は、秩父事件指導者が経済的に村内上層に属していたことを明らかにしつつあった。また秩父事件の持つ政治性については、困民党発起人の一人である落合寅市が、「圧制ノ政治ヲ回復シ自由ノ大義ヲ敷カントスルヲ暴動ト称スル者ゾ」(「秩父殉難志士慰安建碑趣意書」)と力説していた。寅市に始まる秩父事件顕彰運動の原点は暴動と呼ばれることを拒否することにあったのである。
 秩父事件の政治性を否定して持ち上げようとする「褒め殺し」的言説は、その後も、趣を変えては生起している。近年では稲田雅洋氏の「困民党の論理と行動」(『自由民権と近代社会』2004所収)が秩父事件を「日本の民衆が、政治権力を独自の方法で相対化していった貴い記念碑的な道筋」と評している。音楽寺のこの碑こそ、そのような言説が存在した「記念碑」にほかならない。
文責・吉瀬総(秩父事件研究顕彰協議会会報『秩父』No.159)

 秩父事件を「暴動」「暴徒」と貶める見方に私たちは断固として反対します。秩父事件像が正しく伝えられるよう、これからも尽力していきたいと考えます。

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