秩父困民党の幹部たち

田代栄助 (1834・天保5年?1885・明治18年) 大宮郷 困民党総理

 大宮郷で名主をつとめていた家に生まれる。"博徒""侠客"と自認しながら地域では"代言人"としても活躍し、弱者に人望が厚かった。明治17年8月以降、井上伝蔵や飯塚森蔵ら困民党幹部から参加要請をたびたび受け、9月6日初めて幹部会議に参加。関東一斉蜂起論を唱えるが聞き入れられず。武装蜂起後は困民党「総理」として指揮を担当した。ところが11月4日、皆野「角屋」(困民軍本陣)において甲大隊長・新井周三郎が斬られるというアクシデントに遭遇し、困民軍全体の指揮統率を取れなくなると戦線を離脱し、井上伝蔵らとともに武甲山など山中を転々とし、11月15日、黒谷村の知人宅にいるところを捕縛された。
 裁判において死刑を宣告され、事件の翌年5月に刑を執行された。

●田代栄助訊問調書より(抜粋)●

自分ハ生来強キヲ挫キ弱キヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者便リ来ルトキハ附籍(※ふせき=自分の戸籍にいれる事)為致、其他人ノ困難ニ際シ中間ニ立チ仲裁等ヲ為スコト実ニ十八年間、子分ト称スル者二百有余人... 

 

 


加藤織平 (1848・弘化6・嘉永元年?1885・明治18年) 石間村上農 困民党副総理

 高岸善吉・落合寅市・坂本宗作らから困民党活動への助力を乞われ、自ら貸付けていた150円の証書を破ってそれに応える。貧民の面倒をよく見る事から"質屋の良助"の異名をとる。困民党組織前から、新井周三郎が教員の口を求めて訪ねたのが織平宅であり、小柏常次郎がやってきたのも、信州から菊池貫平や井出為吉らがやってきたのも彼の家であったことから、彼の役割の重さや強いリーダーシップを持っていたことが容易に想像できる。
 蜂起では副総理として大宮郷占領の陣頭指揮を執るが、本陣崩壊の後は川越を経由して東京に逃亡。神田で捕縛され、裁判の末翌年5月に死刑が執行される。

 

 


井上伝蔵 (1854・安政元年?1917・大正7年) 下吉田村 困民党会計長

 下吉田村で江戸時代から雑貨商を営む「丸井商店」の6代目。明治12年、阿熊上日野沢下吉田久長連合村議会の副議長に選出されるほどの名望家。17年5月自由党入党、日野沢の村上泰治が逮捕されたのちは伝蔵が秩父自由党のリーダーとして東京の党本部、大井憲太郎らと連絡を取り合い、民権運動を支えていくこととなった。
 明治16年頃から松方デフレの影響を受けて農民が困窮するようになると困民党の幹部となってその運動と組織化に力を尽くすようになる。武装蜂起に際しては会計長という重責を担い、本陣崩壊後は逮捕を逃れて北海道で潜伏生活を続ける。欠席裁判で死刑を宣告されるものの、北海道で伊藤房次郎の変名で新たに家族をなし、大正7年、臨終の床ではじめて家族に自らの半生を伝えた。

●『自由党史』より●

村上泰治の親友に井上傳蔵という者あり、為人沈毅剛膽しかも容貌婦人の如く、挙止極めて嫺雅なり。村上とともに平正宮部襄に師事し、自由民権の説を聴いて頗る啓発する所あり。互いに兄弟の盟を為し死生を共にせん事を誓う

 

 


高岸善吉 中程度の養蚕農家 困民党軍上吉田村小隊長

 養蚕の傍ら副業として染物をやっていたため「紺屋(こうや)の善吉」と呼ばれる。明治17年3月自由党入党。自由党春期党大会(東京)に埼玉県代表の一人として参加。郡内にあっては、落合寅市・坂本宗作とともに「困民党トリオ」のひとりとして困窮する養蚕農家を救う為に郡役所や高利貸と直談判する活動家だった。
 蜂起に際しては上吉田村小隊長として活躍。11月1日夜、椋神社を出発し小鹿野に入った彼は、乙隊の別働隊を率いて三田川3村を走って駆り出しをかける。そののちも様々な場面で八面六臂の活躍をする。
 事件後は加藤織平と行動を共にして東京に逃亡。神田で捕縛され裁判にて死刑を宣告される。翌年5月に死刑執行。 

 

 


落合寅市 (1851・嘉永3年?1936・昭和11年) 困民党軍乙大隊副隊長

 高岸らとともに高利貸・役所に対する請願運動を進め、次第に困民党組織づくりに奔走。
 武装蜂起に至っては、11月4日粥新田峠の戦闘で鎮台兵に向けて木砲を発射して逃亡。各地を転々とし四国高知に逃亡した。翌明治18年には大阪において大井憲太郎とともに「大阪事件」に参加。下関で逮捕。
 明治22年2月、憲法発布の大赦で出獄した後は救世軍に加わるとともに、「秩父暴動」とされたこの戦いを顕彰する活動を真っ先に始めた。加藤織平墓をカンパで建立したことでも知られ、その台座に彫った「志士」の文字を削れと官憲から命じられても突っぱねたというエピソードが残っている。
 また「秩父事件記念碑」の建立を寅市は願っていたがそれは叶わないまま他界した。彼の死後、四男の九二緒氏がそれを引き継ぎ、昭和40年になって秩父市の羊山公園に「秩父事件追年碑」として建立が実現した。

 

 


坂本宗作 上吉田村 困民党軍伝令使

 通称「かじやの宗作」。事件の時は「悟山道宗信士」の戒名を書いた鉢巻で参加。皆野本陣が崩壊したのち、新総理の菊池貫平をはじめ、村竹茂市・伊奈野文次郎・島崎嘉四郎らとともに信州への転戦を指揮する。東馬流の戦闘ののち野辺山原の壊滅まで参加し、そののち秩父郡日尾村山中の炭焼小屋で捕縛される。翌年浦和重罪裁判所において死刑宣告を受け、執行される。

 

 


新井周三郎 (1862・文久2年?1885・明治18年) 男衾郡西ノ入村(現寄居町)出身 困民党軍甲大隊長

 明治17年、石間村に教員の欠員があると聞いて加藤織平宅を訪れ、困民党を知る。
彼自身に借金があったわけではないが、民衆の困窮を傍観できずに困民党に参加したという。
蜂起4日目、大淵村の長楽寺で捕虜の青木巡査に斬られ重傷。これをきっかけに困民軍は大混乱に。事件後、故郷西ノ入に帰るものの明善寺に潜んでいるところを逮捕され、翌年5月裁判において死刑を宣告される。

 

 


飯塚森蔵 (1854・安政元年生まれ) 下吉田村出身 困民党軍乙大隊長

 上州南甘楽郡平原(へばら)村で小学校の教員を勤めていたが、退職して帰郷。困民党の組織化が始まる段階から活動に参加。明治17年夏、田代栄助を困民党の活動に直接勧誘したのが彼で、10月末には信州にまで出向いて組織化を図る。
 11月4日本陣解体ののちの足取りは不明。親族関係者の追跡調査によって愛媛や大分で戸籍が存在していることが判明している。また愛媛県八幡浜の大法寺の過去帳に飯塚森蔵について記述があることもわかっている。

 

 


小柏常次郎 上州上日野村の養蚕農民・板割職人 明治15年自由党入党 小荷駄役

 群馬事件に際して上州の自由党は蜂起を計画し、新井多六郎とともに秩父にやってきて組織化をすすめるが、事件そのものが準備不十分のまま挫折。そのまま彼は秩父に居座る。彼自身の供述によると、秩父困民党には落合寅市ら困民党トリオから助力を求められ、彼らと行動を共にしたとのことである。
 秩父事件直前、上州勢の準備をめぐって田代栄助と対立。蜂起では「小荷駄役」に甘んじる。
11月4日本陣解体ののちの行動は不明だが、13日に自首して逮捕され、重懲役9年となる。明治23年頃特赦によって釈放。42年3月に家族を連れて北海道(今金町御影)に渡り、大正3年に出稼ぎ先の樺太にて72歳で死去。

 

 


菊池貫平 (1847・弘化4年生まれ) 信州南佐久郡北相木村 自由党員 困民党軍参謀長

 村内屈指の養蚕家であり、代言人でもあった。
三沢村の萩原勘次郎から要請を受け、蜂起直前の10月27日に同郷の井出為吉とともに来秩。蜂起に際して「軍律5カ条」を起草し自ら参謀長に就く。
「今日を期して全国ことごとく蜂起し、現在の政府を転覆して国会を開く革命の乱」であると秩父事件を捉えているのが特徴。
 11月4日の皆野本陣解体後、自ら新たに総理となって坂本宗作・伊奈野文次郎・島崎嘉四郎らとともに東馬流まで転戦。行方知れずのまま欠席裁判で死刑。
 明治19年に甲府で逮捕。憲法恩赦で死刑を免れ北海道で無期徒刑。明治38年に出獄し郷里に帰った。大正3年没。

 

 


井出為吉 (1859・安政6年生まれ) 信州南佐久郡北相木村 自由党員 困民党軍軍用金集方

 村内屈指の豪農で明治12年に21歳にして村会議員、明治16?17年にかけて戸長と学務委員をつとめた。
『仏国革命史』『広議世論』『民権自由演説規範』『欧米政党沿革史』などの膨大な蔵書が発見されており、相当のインテリで積極的な自由民権家であった事がわかる。
 明治17年10月下旬、菊池貫平とともに秩父へゆき秩父困民党に参加。蜂起に際しては軍用金集方となる。商人から軍用金を借りした際、証文に「革命本部」と書いた事は有名。
 事件後軽懲役8年の判決を受けるが憲法発布の恩赦で出獄し、そののちは教員や役場吏員をつとめた。明治38年死去。

 

 

宮川津盛  上日野沢村出身 困民党軍会計副長

 大山神社の神職だった彼が困民党に参加したのは、明治17年10月28日の小前会議に同じ村の村竹茂市に参加を依頼されたことがきっかけだった。10月31日の小前会議ののち田代栄助を自宅に泊め、袴一式を与えてともに出陣した。
 蜂起に際しては会計副長となり、つねに田代栄助ら幹部の中枢にいて物心両面から彼らを支えていたものと思われる。
 明治18年1月31日、浦和重罪裁判所にて重懲役9年8カ月の判決を出されるものの明治22年の憲法大赦によって帰郷した。

 

 

柴岡熊吉 大宮郷近戸出身 困民党会計兼大宮郷小隊長

 明治11年に身代限りとなり、その後も負債を抱えていた。もともと懇意にしていた田代栄助に誘われる形で秩父困民党の活動に加わる。また「近戸川熊吉」のしこ名で草相撲の大関をはっていたことでも知られ、彼が奉納した相撲絵が秩父市荒川上田野・千手観音堂にある。
 武装蜂起に際しては会計兼大宮郷小隊長として高利貸との折衝や炊き出し要請、治安維持など様々な場面で活躍した。11月2日の大宮郷突入に際しては斥候として鉄砲方2名、抜刀2名をしたがえて真っ先に大宮郷の様子を探った。
 11月4日の皆野本陣崩壊後は高篠山に隠れ、そののち吾野、八王子、小田原、熱海へと逃れ、12月3日、横瀬村に潜伏していたところを翌4日午後9時ころ逮捕。
 明治18年2月23日、浦和重罪裁判所から軽懲役8年の刑を受け、のち浦和監獄にて獄死した。
 言い伝えによると逮捕され尋問を受けた熊吉に対する官憲の拷問はすさまじく、背中を斬られてそこに鉛の煮え湯を流されるという壮絶なもので、そのためにすっかり身体を弱め、命を縮めたという。

 

 

大野苗吉 (1862・文久2年??) 風布村 困民党軍甲副隊長

 風布村の養蚕農民。蜂起に際して同郷の大野福次郎・石田造酒八らとともに風布村の中心人物として組織化を先導。駆り出しの際に「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」と触れまわったことで知られている。
 困民党軍の甲隊・副隊長として部隊をリードし、皆野本陣が崩壊したのちは甲隊の一隊を率いて本野上から出牛峠・秩父新道を経て児玉・八幡山方面に転戦するべく進む。しかし児玉郡金屋村において鎮台兵の一隊と遭遇。「進め進め」と鼓舞しながら鎮台兵の部隊へ斬りこんでいった末に戦死したという目撃談もあるが、上州や信州で彼を見かけたという目撃談もあり、その生死についての詳細は現在まで明らかになっていない。10月31日付けで失踪宣告が出されたままである。

 

 

犬木寿作 (1851・嘉永4年?1933・昭和8年) 飯田村出身 困民党軍飯田村小隊長

 明治13年「共精社」という製糸揚げ返し工場設立に際し、糸繭商・高利貸の柴崎佐平(ヤマニ)や加藤恒吉(常盤屋)とともに出資者のひとりとなるなど、彼自身もまた金貸しのひとりであった。しかし明治17年の夏頃から高岸善吉らとともに困民党の活動に加わるようになり、郡役所への請願運動などにも参加する。
 蜂起に際しては飯田村小隊長として活躍するが、16日に小鹿野警察署に自首。裁判において軽懲役8年6カ月となる。憲法発布の大赦により出獄したのちは精農家として生涯を送り、83歳まで生きる。


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